僕の好きな映画、愛してやまない映画。
『ファイトクラブ』
「え?どうせ何か闘う系のやつでしょ?」
「衝撃の展開が!とかいう感じだよね」
「もう観たけど、まあまあな脚本だったね。」
いやいやいやいや違う違う違う違うチガウちがいますって
この作品はもっと奥深いんですよ!
ファイトクラブを愛してやまないこの僕が、ファイトクラブ愛をもってその魅力を語っていきます。
ここからはネタバレ有で内容に触れまくっていくどころか、作品の奥の奥の方まで突っ込んでいきます!
観賞されていない方はご注意ください。
ファイトクラブとは?
おさらいです。
上がエドワード・ノートン演じる主人公(僕)
下がブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデン
この2人が物語の主要な登場人物です。
偶然出会った性格の正反対な二人が、路上で行った殴り合いのファイトを通じて、後に『ファイト・クラブ』という組織を結成。
相手と拳を交え痛みを感じる事で、生きる意味を見出します。
その後ファイトの規模と組織は拡大をし、社会テロを起こす危険な状態に。
そして“僕”は、衝撃の事実を知ることになる……。
これがあらすじですね。
この映画の見どころとしては…
エドワート・ノートンとブラッド・ピットの競演や熱い男の戦いの物語!
サスペンス要素と後半に訪れる衝撃の結末!
みたいな感じが一般レビューサイトや、TSUTAYAさんでの宣伝販促文句だと思われます。
特にネットの映画作品記事で『どんでん返しがあるおススメ作品!』みたいな紹介が多いため、初見の方はどうしてもそこに目が行きがちです。
しかし、この作品の魅力は他にもあるんです。
衝撃の展開はあくまで一つのネタです。
そこを軸に上手く作ってあるのは間違いないですが、大事なポイントはそこではありません。
じゃあ!どこなのか!?
この作品訴えるメッセージを、僕が静かに熱く紹介していきます。
ファイトクラブが現代社会へ投げかけるメッセージ性
この主人公には『自分』がありません。
劇中では下記の様に話すシーンが登場します。
人生はコピーのコピーのコピーの様だ
自分自身では大好きな北欧家具を揃え、充実のライフスタイルを謳歌している様です。
しかし実際はライフスタイルの奴隷として物質依存をしている、精神的に弱い人間です。
自分に自信が無いから、周りをモノで固めて自身のステータスを誇示する。
自分が何者か、それを伝える事ができないんです。
我々は消費者だ。ライフスタイルに仕える奴隷。殺人も犯罪も貧困も誰も気にしない。それよりアイドル、テレビ、ダイエット、毛生え薬、インポ薬にガーデニング…。何がガーデニングだ!タイタニックと一緒に海に沈めばいいんだ!
タイラーがレストランで主人公にこう話すシーンがあります。
そう、主人公は自分が行っている事への虚しさに気付いているんです。
だけど自分に自信が無いからいつまでも自分に見て見ぬフリをして、今日もIKEAのカタログを眺め『あと何を足せば完璧になるか』を考えています。
逃げる様に、まがい物とどうでも良い物で『自分』という存在を作りあげる為に。
この劇中内で表現されているメッセージは、作品が公開されて20年余り経過しても全く同じです。
人々は広告に踊らされ虚構で溢れた理想のライフスタイルを追い求め、今日も消費にいそしみ奴隷の様に働く。
目の前の利益の為だけに質の悪く消費される作品だけが次々に作られ、そして直ぐに忘れられていきます。
街は広告で溢れ、僕たちに常に消費をさせようと必死です。
テレビや雑誌は流行を追い求め『知らないと流行に乗り遅れる』『買わないと損をする』そんな空気を作り上げ、皆が本当に大切な物を見失っています。
皆自分に自信が無く、未来に何をしたいのか、どう生きて行きたいのか
そんな答えを見つけられず、ライフスタイルの奴隷のまま人生を終えるのです。
公開当初は大ヒットとまではいかなかったこのファイトクラブで表されているメッセージは、現代社会において痛烈に人々の心に響く内容となっています。
主人公に影響を与える二人のキャラクター
この劇中では、主人公に強い影響を及ぼすキャラクターが二人登場します。
タイラーダーデン
まず一人は、勿論タイラー・ダーデン。
劇中では彼ら二人を中心に話は進んでいきます。
しかしこのタイラー、実際は主人公が心の中に作り出した二重人格の人物です。(幻聴)
彼は主人公の理想。
こうありたいという理想や願望が具現化した人間です。(強靭な精神性、筋肉隆々の体、自信に溢れた挙動)
ある日主人公が自宅マンションに帰ると、自分の部屋が爆発事故に遭い火災が発生していました。
今晩の宿を探す為、飛行機の中で出会った『一度きりの友達』タイラーへ連絡を取り食事をします。
そこで家財を全て失い悲しみに暮れる主人公に対し、物質に依存するなと心の弱さを指摘し生き方を説いていきます。
食事後にタイラーに頼まれ始めての殴り合い(ファイト)をした主人公は、その後ファイトにのめり込んでいきます。
自分は生きているという実感を得る為に。
その後2人は奇妙な共同生活を始め、ファイトクラブの参加者を増やしていきます。
ある時からタイラーの行動はエスカレートしていき、主人公の手を硫酸で焼いたり車の運転を運命に任せ事故を引き起こしたりします。
この行動はいずれも全て自分が一人で行っている事です。(自分の弱さから生まれたタイラーという無意識の幻聴)
彼は自分の弱さを払拭するかの様に、自己破壊を繰り返しているのです。
ファイトクラブというタイトルは簡単に受け取ると、他者と闘うイメージの作品です。
しかし本質的な内容は全くの逆です。その証拠として、他者への暴力を否定する様なシーンが登場します。
エンジェル・フェイスという新入りと主人公が闘うシーンです。
この戦いで主人公は容姿端麗な相手を執拗なまでに殴り続けます。
相手の顔面が血に染まっても、殴り続ける手を一向に止めません。
その表情には生気は無く、普段のファイト後にある充実感や爽快感は皆無です。
その光景を見たタイラーは、主人公に対しこう告げます。
「気が済んだか。サイコボーイ」
そう、暴力を相手に行使する行為自体は無意味である事が描かれています。
この作品において、肉体的な闘いに注目するのは全くの無意味なんです。
寧ろ逆であり、主人公の精神的な成長こそがこの映画最大の見どころでありラストシーンへのカギとなっているんです。
タイラーから勝ち取った強さ
他者ではなく自己へ与える痛みによって、相対的に自分の存在を確認し精神的に強くなっていく。
これこそが主人公が寝る事なく(後半に消えたタイラーを探しに行く)無意識化で行い続け、望んできた心理なんです。
物語後半では、タイラーが発案しクラブの会員たちが社会に対して行ってきたメイヘム計画(資本主義の象徴や企業に対し制裁を加える計画)は広がりを見せていました。
力を持ったクラブ会員たちが衝動的に街に繰り出し制裁行動を起こしますが、主人公はその異常さに違和感を覚えます。
そしてタイラーと同乗した車での事故(運転を放棄し運命に命を任せた行為)以降、タイラーは主人公の前から姿を消しました。
主人公はタイラーダーデンという男は自分が作り上げている存在という事に、そこでようやく気が付きます。
その気付き以降、目の前に再び現れたタイラーはまるで別人の身なりでした。
全身派手で豪華な洋服に、デザインされたスキンヘッド。
それはまるで主人公がかつて依存していた、外見だけを装った人物のそのものです。
つまり物語前半は、力への気付き(ファイトの繰り返し)と生死の実感(自助グループ参加、ファイト、手の硫酸焼き、車の事故)
そして後半は、力を持つことの難しさ(メイヘム計画の異常性阻止)と自身の弱さと対峙し、自身を超える事の難しさ(タイラーとの決戦)が表現されています。
タイラーと初めて出会ったのは飛行機の中で、墜落する妄想をしている時でした。(人生に対し無気力で、死んでも良いという心理)
そして自身がタイラーだと気付いたのも「着陸します、座席をもとの位置に」というアナウンスが流れる機内。
その間には自身の『生』を実感する様な体験が、いくつもありました。(ファイト、車での事故)
そんな体験を経て、生きる強さを持って戻ってきた主人公。(生きる実感を知り、生きたいと願うようになった)
飛行機を用いて主人公の心理をメタファーとして表現しているのも、また一つ興味深い見どころですよね。
最後に主人公はメイヘム計画により爆弾がセットされたビルでタイラーと対決し、自分を取り戻します。
正確に表現するのであれば、今までの自分の整然さや優しさ、そしてタイラーが持っていた自信や強さ。
その2つを併せ持った人格である最高の自分を、最後に勝ち取るんです。
マーラ・シンガー
そしてもう一人の重要キャラクター。彼が自分を取り戻す大きな鍵となった人物がいます。
ヘレナ・ボトムカーター演じるこの女性の名はマーラ・シンガー。
主人公にとってマーラは気に食わない奴です。
(自傷気味、精神不安定、自分を偽り生きる)
主人公が精神安定を求め参加する様になったガンのコミュニティに、彼女も姿を現わす様になります。勿論二人とも病気ではありません。
主人公は心の内を互いに吐き出すコミュニティの心地よさに、そしてマーラはそんなコミュニティを小馬鹿にしコーヒー目当てで毎回参加をします。
自分もガンでもなく参加している後ろめたさを感じつつ、明らかに嘘をつきながら何食わぬ顔で非常識な態度を取っている彼女がどうしても目障りでした。
このマーラ。劇中ではタイラーと異なり、確かに存在する人物です。
実は彼女、主人公(僕)の心が投影されたメタファーの役割を負う人物として表現されているんです。
主人公の写し鏡
マーラは老人への宅配デリバリーをくすねて食いつなぎ、病気でもない体でコミュニティへ参加し、コインランドリーで盗んだ服を売って生活している人間です。
その精神は不安定であり、自分を偽って生きています。
それはつまり自分に満足しておらず、不幸せとわかっていながら生の実感も無くただ生きている人間。死んでいないだけの存在です。
これは主人公が自覚している弱さそのものであり、コミュニティでマーラと顔を合わせる事は『目を背けたい現実を直視する』事に他ならないんです。
これからも自分を誤魔化し続けるために、邪魔な存在でしかないマーラを直視できない主人公。
ですがタイラーたちと続けてきた深夜のファイトを経て、そんなマーラへの気持ちが変化し始めます。
物語の後半ではそんな主人公が、マーラへ好意を持っている様な描写がいくつか登場します。
胸にしこりがあると呼び出したマーラの呼びかけに応える。これは他人への思いやりを持ち、ケアする事のできる心の余裕が生まれている証明です。
マーラと関係を持っているのはタイラーだと思い込み続け、邪魔な存在だと感じている様な人間に対して表現する行動では無いですよね。
これはタイラーとの出会いによって精神的な自信が構築されていき、自分が変わり始めたからです。
自分に自信がつき負の部分を乗り越える事ができた瞬間から、他者への心配りや優しさを持てる様になりました。
今までは直視できなかった自分自身の弱さ。そんな自分の写し鏡であるマーラの存在を肯定する事。
それはファイトや生の実感を通し成長した自分を認める、というメタファー。
だからラストでタイラーと最終決戦を終えた後に自分のもとにかけつけたマーラを迎える主人公の面持ちは、あんなにも穏やかで自信に満ちた表情になっているんです。
出会いのタイミングが悪かった
この主人公のセリフは、強くなった後の自分であればマーラ(自分の写し鏡)と上手くいく事がわかっているからです。
自身の弱さが作り出したタイラーという理想であり越えなければならない存在。
その存在を超えることが出来た主人公。
彼は今自信と余裕に満ちていて、そこには過去にすがっていた物質依存や生の実感が無い人生はもうありません。
彼は初めにタイラーと飛行機の中で出会った際に、こんな事を言っていました。
「人を助けるなんて、自信が無い」
そんな彼が今や一人の女性を勇敢にも助け、これから崩れ落ちるビルを前にこう言うんです。
「これからは全て良くなる」
ファイトクラブのラストはハッピーエンドかバッドエンドか
この映画のラストはタイラー(主人公)が仕掛けた時限爆弾によってビル群は崩壊し、主人公とマーラが写る画面は揺れながら映画はエンディングを迎えます。
まず最終決戦の最中で自身の口内を銃で撃った大怪我の主人公が、あの状況で生き残れるとは思えない。マーラにおいても恐らく助からないでしょう。
普通に考えれば2人は死亡しバッドエンドと解釈できる。
しかし僕はこれを全くバッドエンドとは思わない。寧ろ最高に悲しいハッピーエンドだ。
ビルが爆発し、マーラは目の前で崩れて行くビル群に動揺を隠せない。
しかし主人公は全く動じない。彼は本当に強くなったのだ。
物質に依存し自分を自身を直視する事を避けてコピーの様な日々を生きてきた日々。
そんな日々は終わりを告げた。
人生はコピーのコピーのコピーの様だ
こんな毎日を送っていた主人公。
僕は走った 筋肉が焼け、血はバッテリー液となった
まるで違う能動的な表現で、自身を表しています。
ファイトに明け暮れ自分の体に生の実感を与え、自分の命を流れに身を任せ、本当の生死の間を彷徨った末に彼は今ここにいる。
彼は『生きている』これからの人生が、未来が待ち遠しくて仕方ないんです。
写し鏡(主人公側からは)の様な存在でいがみ合っていたマーラ。
そんな彼女が最高に穏やかで優しい顔で主人公を見て、互いの心が初めて通じ合った。
ただ死んでいなかった様な人生を送ってきた二人が、初めて生きている実感を感じた瞬間がここにある。
自分の弱さを誤魔化す為に通った自助グループでボブの胸に顔うずめ、沈黙と忘却の暗黒の世界に身を投じていた主人公。
彼はここで語る。「自由をみつけた」と。
自助グループで感じた他人の命の重さ、ファイトで体に刻んだ傷、手に焼き付けた傷、車と運命に身を任せた命
この作品では都度表現される生と死の触れ合いを経て、主人公は本当の自分を取り戻した。
そんな彼が本当に見つけたかった、真の自由がここにある。これからそんな人生が始まります。
まさに彼はコピーの連続の様な毎日から、本当の意味で一回分を生きる人生を掴んだ。
これ程に多幸感に溢れ、刹那的なラストを飾るハッピーエンドが他にあるだろうか。
ファイトクラブが表現する、迷える現代へのメッセ―ジ
映画ファンの間では傑作やカルト的な人気を博すこの作品。
メタファーやキャラクターの内面に注目して観ると、もっと面白いですよね。
僕がこの作品を好きな理由として、 昔の映画なのに常に今の時代や自分に問いかけられている様な気がするんです。
僕たちが生きる現代は争いや差別、貧困や嘘で溢れています。
そんな中で自分の人生を探す為に、良くするためにみんな必死に生きています。
だけど、本当になりたい自分を探しているんでしょうか?
SNSで自分を取り繕って、欲しくもない物を買って集めて、心から必要な物に出会えずにまた今日が終わる。
最近心から笑えた日って思い出せますか?
生きている事を実感した出来事って覚えていますか?
彼らに言われている気がするんです。
「お前はそれでいいのか?」
「そんな生き方で満足か?」って。
画面を通して、コピーの様な人生を送ってないか?って心を揺さぶられるんです。
だから何度見ても面白くて刺激的。
そして何より、心に響く作品なんだと思います。
僕も主人公が迎えたラストシーンの様に、最高の自分と出会ってみたいです。
皆さんもぜひ、今の自分と照らし合わせて観賞してみるのも面白いと思いますよ!
コメント