【映画】ジョーカーは暴力的?暴力描写は規制されるべき?【映画の役割とは】

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映画『ジョーカー』

 

ついに公開されましたね!皆さんは観ましたか?

 

バットマンシリーズでカリスマ的人気を誇るこのキャラクターの新作として、アメコミファンが待ちに待ったこの作品。

しかし製作国であるアメリカでは暴力的な描写があることから、銃乱射事件やテロへの警戒、そして公開を不安視する声も多く上がっています。

 

皆さんは映画における暴力描写の是非について、どう考えますか?

 

 

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映画作品の暴力描写は必要か

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世の中には様々な映画作品があり、その幾つかには度々暴力描写が登場します。

目の前の相手を平手打ちで叩く
ゲームの様に次々と頭を撃ち抜く
深い憎しみを込め恐怖を与えながら刺し殺す
激しく拳を交え殴り合う


映画の脚本や表現方法によって、その描写は大きく変わってきます。
これらの描写は『暴力によって相手を倒す』という事実だけでなく、暴力を振るった側の精神性が表れています。
残忍、葛藤、優しさ、正義感、破壊、自己表現。

暴力は決して正当化されるものでも手本となる手段でもありませんが、映画は『なぜ暴力に至ったか』を脚本や演技を通し観客に訴えかけてきます。

大切な事は『暴力』自体にあるのでなく、暴力の至った経緯や影響についてなのです。


 

映画から暴力の愚かさを知る

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作品の中で暴力描写にあたるかという議論において、よく挙がる作品がこちら。


www.youtube.com

『プライベートライアン』です。

スティーブン・スピルバーグが製作したプライベート・ライアンは、第二次世界大戦における連合軍のノルマンディー上陸作戦を舞台に、ライアン2等兵の救出を描いた作品です。
その映像描写はリアルの一言。かなり視覚的に衝撃が強い作品です。

銃で頭を打ち抜かれ露出する脳
臓器があらわになった状態で浜辺を走る兵士
戦場には怒号と悲鳴と母親の名前を叫ぶ声

そんな光景の中で何百名という数の兵士が次々と銃弾に倒れていき、息絶える激しい戦闘シーンが描かれています。

はっきり言って目を背けたくなる描写の連続です。これが現実に起きた実際の出来事という事が耐え難いくらいに。

しかしこれを見て単なる暴力による映画作品と片付けるのは、全くもって理解できません。

スティーブン・スピルバーグは単に戦争における殺し合いを描きたいが為に、この作品を制作したのではありません。
この悲惨な事実に目を向け後世に残すことが、真の反戦になるからです。

教科書の文字を読み、誰かから聞いただけで戦争の悲惨さは理解できません。
スピルバーグはリアリティに徹底的にこだわり、スクリーンを通して戦争とはどういう物かを訴える事で反戦の意を表現しています。


そして同じく挙がりやすいもう一つの作品


『ファイトクラブ』

僕はこのファイトクラブが映画作品の中で一番好きです。大好きです。
まずタイトルからして闘うイメージだけが先行し、未見の人に敬遠されがちな作品です。

確かに暴力的なシーンはいくつか登場します。
しかしこの作品を観て暴力映画だと言っている人がいるとすれば、それは全く見当違いです。

このファイトクラブはエドワート・ノートン演じる冴えない主人公がブラット・ピット演じるタイラー・ダーデンと出会い、路上での殴り合いを通し生きている実感を取り戻し自己実現をしていく話です。

そしてこの映画のポイントとして重要な点の一つ。

暴力が相手に向けられた物ではなく『自分に向けた暴力』という点。

この点や映画についての詳しい記事は、次回書きますね。


作中には主人公が上手くいかない現状を、ファイト相手に向けるシーンが存在します。
普段の戦いでは相手を殴る事は自分の生の実感の為であり、規律や敬意を用い相手と接しています。

しかしこの戦いで主人公は容姿端麗な相手を執拗なまでに殴り続けます。相手の顔面が血に染まっても、殴り続ける手を一向に止めません。
その表情には生気は無く、普段のファイト後にある充実感や爽快感は皆無です。

その光景を見たブラット・ピット扮するタイラー・ダーデンは、主人公に対しこう告げます。

「気が済んだか。サイコボーイ」


この暴力シーンは映画においての大変重要なメッセージです。
監督デヴィット・フィンチャーの、暴力への否定という意思が込められてます。

怒りや感情に任せ暴力を振るう事が全くの無意味な行為であり、暴力を通して観客に伝えようとしたんです。


そうです。暴力の虚しさを説き批判するには、まず暴力がどういった物かを本当の意味で理解しなければならないんです。

それは暴力を振るう為ではありません。暴力の本質を知り、その恐ろしさを他者に伝える為に。


臭いものに蓋をする矛盾

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こういった本質や表現者の意図を理解しない人間が、表面的な物事を見て『青少年の育成に危険な影響を及ぼすので禁止する』という判断を下すのは、非常に無意味です。
ただ単に臭い物に蓋をして、無い物にしているだけです。単なるその場しのぎであり、本当に暴力がどういう物かという事に対して思考する気は無いんです。


暴力がどういった物か知らないのに、その恐ろしさや無意味さを他者に伝えられるでしょうか?

子どもの教育上良くない、過激な描写は人間に悪影響を及ぼす。
さも正論の様に振りかざしていますが、全く暴力に触れる事の無い人間はどんな人格形成をするのでしょうか。

相手を叩いた事が無い人間や、自分が傷ついた事が無い人間は他者の痛みがわかるでしょうか。
暴力が悪という事を理解し他者に伝えられる機会が無い人間は、社会に出た時にどうなってしまうのでしょうか。

子供の成育に合わせ段階的に教育や管理をしていく事は必要です。
しかしそんな機会すら奪ってただ単に蓋をする様な対応は、ある意味その問題を避けているのではないでしょうか?
教育する立場を放棄している考えとしか思えません。

そんなきっかけすら奪われる事が何より不自由でなりません。
社会の不条理や矛盾への問題提起こそが、映画の役割でもあり託された希望だからです。


『ジョーカー』

主人公アーサーが如何にして悪のカリスマであるジョーカーに堕ちて行ったのかを描いています。

ジョーカーはバットマンシリーズで人気のキャラクターです。
これまでジャック・ニコルソンやヒース・レジャーなど数々の名優が演じてきた事により、そのリアルな人格が肉付けされてきました。

単なる卑劣で愉快犯のヴィラン(悪役)ではなく、現代社会や人間の精神性における闇を映しだす存在にまで昇華されています。

卑劣であり人々の予想を超えた行動を取りながら、軽々と暴力も振るう人間です。
この映画のゴールの想像は難しくありません。彼がジョーカーである事は、観衆の皆が知っているから。

問題はそれに至る経緯です。

純粋に希望を探しながら日々生活している優しい主人公であるアーサー。
彼は社会の不条理や矛盾に巻き込まれ次第に自己を無くしていき、そのやり場の無い怒りや虚しさの矛先は世の中に向けられていきます。

暴力を振るう自信に困惑しながらも社会は彼の行動を支持する様になり、次第に彼は曲がった自尊心を持ち行動を起こしていく事になります。

この映画の中での社会は現代の写し鏡です。
貧困、格差、暴力、経済不安、上流階級への不満、孤独…

多くの人が満たされていると胸を張って言える世の中では無い現代において、劇中で虐げられるアーサーに対し一種の共感をしてしまうんです。

この映画において暴力は『善良な人間が、なぜ暴力を行使する人間性に変わっていったのか』を表現する手段です。
その行為自体に本質的な重要性はありません。


暴力自体にフォーカスを当てるのではなく、現代社会の不安を見つめ直す機会を僕たちは問われているんです。

これこそがジョーカーがベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した理由でもあり、芸術作品であると表現される所以でもあります。


バットマンシリーズでジョーカーが表現してきた事。
正義や悪なんて物は常に表裏一体であり、何らかのきっかけや誰かの一押しで簡単に裏側に堕ちる。

彼は常軌を逸した予測不能な行動をしている様に見え、常に僕たち観客や正義のヒーローである(とされている)バットマンに対し『本当にお前が正しいのか?』と問いかけます。


力は使い方次第で正義にも悪にもなり得る。

力を持った者を暴力に駆り立てる、要因は何なのか。誰の影響を受け、何故その力を行使するのか。

映画における暴力は謂わば必要性のある悪であり表現です。僕個人としては、必要な表現だと考えます。

ただスクリーンの中の出来事を受け取るだけでなく、その真因を考えながら、作品と向き合う事が大切なのではないでしょうか。

www.housework-kuma.com

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